現地法人の分社化、新規事業会社立上げ
2005年11月、駐在員のマネジャークラスには事前に知らされていましたが、現地従業員にとっては青天の霹靂と言える出来事が発表されました。
販社時代から中核を担って来た発電設備営業部門が、環境設備の設計・調達・現地工事、プロジェクト管理機能を付加され、ハドソン川を挟んでマンハッタンの対岸に広がるニュージャージー州に拠点を移し、事業会社として新たなスタートを切ることが正式に発表されました。
現地人マネジメント採用
これに先立ち、新会社の経営方式や幹部人材の登用方針が検討されました。
ポイントは、既存のアメリカ本社機能の幹部を務めた社内人材を新会社幹部として採用するか、或いは、新たに外部から人材を採用するかでした。
90年代半ばまで一介のモーターのセールスマネジャーであった人物が、アメリカ本社の発電及び産業設備営業部門のセールスマネジャーとして採用され頭角を現し、業界の景気回復の追い風もあって、短期間にダイレクター、シニア・ダイレクターとトントン拍子に昇格し、2004年には営業担当副社長にまでなっていました。
営業部門で力強いリーダーシップを発揮していたこの人物を、新会社の社長にすべきと考える現法日本人幹部及び日本本社幹部と、新たに外部から事業会社の社長経験者以下主要部門のトップ経営陣を採用すべきであると考える幹部に意見が分かれました。
争点は、営業出身で現法副社長になりたての人材に本当に設計部門なども抱える事業会社の経営を任せても良いかという点でした。
結果的には、任せられないという判断となり、会社経営を長年経験してきたアメリカの業界でも実績のある人物を社長以下の幹部人材を外部から迎えることに決まりました。
新会社のトップとして採用されたのは、ニュージャージー州に拠点を置き、世界的に納入実績のある発電設備・環境設備の競合メーカーの社長経験者でした。
彼は、自分の配下の信頼する人材を数名引き連れて来て、商務担当副社長、プロジェクト履行担当副社長、設計担当副社長、資材部長、品質保証部長などのポジションに就けました。
従来のアメリカ本社時代からの人材で登用されたのは、前出の営業担当副社長、総務人事勤労担当部長、法務部長(アメリカ本社法務部長と兼務であったので、後に新社長要望により専門弁護士を採用)のみで、CFOは日本本社経理部門から米国の大学を卒業した人材が派遣されました。
現地従業員の動揺
このような展開に、販社時代からアメリカ本社に務めてきた従業員たちが反感を抱いたのは言うまでもありません。
勤務先がニューヨーク州のマンハッタンに程近い場所から車で1時間離れたニュージャージー州に移転されること、そして新会社の経営陣が顔も知らない競合メーカーから来ることの2点が最も大きな不安要素となりました。
通勤が出来なくなる人やキャリアプランに不安を覚えて退職を希望する人、残されたアメリカ本社の別部門への異動を希望する人などが現れましたが、会社の想定内の反応であり、退職を希望する人には特に手厚い退職プランが提示されました。
総務人事勤労部門は大変苦労しましたが、大きな揉め事もなく事態は収束されました。
営業部門のダイレクター級の人材が2名退職し、韓国の競合メーカー現地法人に副社長級で転職し、営業担当副社長は両手をもがれ、新社長に対して強い反感を隠すことなく、事ある毎にストレートに不満をぶつけていました。
しかし、半年もすると、エンジニア出身で経営トップ経験者との実力の差に何時しか納得せざるを得なくなっていました。
現地流マネジメントとガバナンス
2006年1月より、ニュージャージー州に拠点を移して新事業会社が正式に営業を開始しました。
ニューヨークのアメリカ本社から分社化される形で、アメリカ国内や世界的にも実績のある発電設備メーカーやエンジニアリング会社が数多く拠点を置くニュージャージーに事務所を構え、20名そこそこのメンバーでのスタートでした。
新会社が事業会社の形態を取ったことには理由があります。
CO2問題に代表されるような環境規制問題が世の中の注目を浴び、全米の電力の70%以上を賄う石炭火力発電所に対する環境規制適用が厳しくなり、多額のペナルティーを課せられ、操業停止に追い込まれる事態を避けるべく、発電事業各社は先ず老朽化した石炭火力発電設備に環境装置を取り付け操業しつづける道を選びました。
発電所の規模にもよりますが、環境設備投資は数10億円~100億円規模で収まり電力料金に転嫁出来ます。
一方で、老朽化した発電所を潰し、新たに最新の発電設備を導入するとなると、建設期間は5年ほどを要しその間収入がなくなり、且つ、投資額は規模によりますが1式当たり500億円規模以上になるので、環境装置の急激な需要増加が見込まれました。
環境装置の原理は、排ガスを幾つかの装置を通して化学反応により処理することで、最終的に煙突から外気に出て行くガスから規制対象の成分を取り除きます。
装置を構成する設備は、機械的には非常にシンプルな作りですので、コア部品は日本の母工場から輸入しますが、装置全体の設計と殆どの設備の調達、現場での組み立てや据付工事、試運転までを現地法人で取り纏め、競争力を発揮する基本方針が決まっていました。
この基本方針に従って、日本本社との間に技術提携契約を結び技術供与や必要なサポートを無償・有償で受け、フラットな組織・運営体制の下、ある程度現地で独立したスピーディーな意思決定がなされる仕組みが出来上がりました。
立上げ3年間の変化
自らヨーロッパに駐在経験がある新社長は、日本人駐在員の扱い方にも長けていました。
各部門の部門長は自分が声をかけて連れてきた信頼できる現地人材でしたが、その横に日本本社や主要工場で部長以上の経験を持つ駐在員を直接ライン責任のない副部門長として据えることで、日本側からの強力な支援を上手く確保しました。
新会社営業開始から1年が過ぎ、ようやく立上げメンバーの努力が日の目を見る瞬間が来ました。
大手電力会社向けに、複数の発電所の環境装置を包括受注する100億円規模の契約が締結されました。
この契約を履行するに当たって、設計・調達エンジニアの大量採用が行われ、一気に会社の規模は20名そこそこから130名ほどに拡張されました。
この受注実績を契機に、その後次々と10~20%程度の前金付の案件を受注し、1年目の終わりに資本金をほぼ使い果たしていた状態から、2年目の終わりにはキャッシュ・フローが100億円を超えるまでに事業を拡大することに成功していました。
複数の数10億円規模の契約を同時に履行するようになり、ピーク時には従業員数も300名を超える大所帯となりました。
しかし、アメリカ国内で環境問題が更に厳しくなると、石炭火力発電そのものへの目も厳しくなり、最新設備を導入した新規の大型石炭火力発電所建設計画も極少数に限られて行きました。
また、環境装置メーカーも乱立し、競争が激化して行きました。
こうした中で、新会社は火力発電設備のみならず、原子力発電設備や水力発電設備の受注活動にも力を入れ始めました。
筆者が日本本社に帰任する2009年のタイミングでは、受注済案件の契約履行も順調に進められ、エンジニアリング作業も減って行き、100名規模のリストラが進められました。
アメリカならではの大胆な経営手法ですが、雇われた側のエンジニアたちにとっても予想された展開であったと考えます。
著者:高野明
自己紹介:47歳男性会社員、大手メーカーの海外営業部門勤務22年。ニューヨーク5年、北京3年の駐在経験あり。3つの現地法人の管理職として、英語や中国語を駆使し、現地人の雇用や事務所立ち上げ、営業スタッフ指揮監督やプロポーザル取り纏め、マーケティングや事業戦略策定、契約交渉や契約履行のトラブル対策など営業活動全般の経験あり。