第1部 現代企業の経営理念
第1章 企業とは何か?
第1節企業の社会的意義
1970年代前半、高度成長時代末期の日本では、企業を軽視する風潮が非常に強かった。「企業は利益を生みだすための機構であって、企業人はそのための道具にすぎない。」「企業は利益のためならどんなことでもやる。」このように企業を蔑視し、軽んじることが、なにか進歩的であるかのような風潮が支配的であった。
21世紀の現在、ここまでの反企業的なムードはないにしても、「企業は利益を上げるために存在している」というような無機質なイメージで「企業」を捉える雰囲気は、いまだにあるように思う。
そこで、このような「企業」の捉え方に対し、われわれはかく主張する すなわち、「企業は田圃である!」と。
今日の企業は高度に発達した経済社会の社会的分業の一端を担い、かつ、その企業自体の内部でも複雑・高度な分業と協業が形づくられている。企業のなかで、分業の細部的一端を担っている個々の企業人にとって、企業の果たしている社会的役割の認識は、なかなか困難なことも多い。
企業の社会的意義・役割を正しく認識するには、むしろ社会的分業が単純だった時代にたちかえって、企業の「原点」を考えるほうがよい。
そこで、われわれが江戸時代に逆戻りしたと考えてみよう。そうすると、今日の企業人は、江戸時代では「百姓」である。当時は農業が生産のほとんど唯一の場であった。田圃の耕作に従事する「百姓」の活動が良い収穫をもたらし、「百姓」の生活を保障したのである。
この時代には生産性は非常に低かったから、増大する新しい労働人口にみあう働き場所=「新田」を開発することは、なかなか容易ではなかった。そのため、苛斂誅求を事とする領主も「新田」の開発を重視した。これが保障されない場合は、「百姓」はやむをえない措置として、「間引き」(胎児、嬰児を人為的に殺す人口制限の手段を、農作物などの間引きになぞらえていう。)などにより、人口削減をはからなければならなかったのである。
ところで、当時の農家は「自給自足」の体制で経済を営んでいた。食料はもちろんのこと、味噌、醤油、肥料、衣料、さらには住宅にいたるまで、すべての農家内の「自給自足」でまかなっていた。
その後の経済の進歩・文明の進歩は、この農家の「自給自足」が解体し、社会的分業が拡大したことによっている。たとえば、かつては農家のなかで片手間に行なわれていた製糸が一つの独立した職業になる。独立した職業になれば、片手間の仕事に比べて熟練が飛躍的に高まる。慣れない片手間の仕事よりもずっと高い生産性が実現される。
そうなると農家は、自分の家で糸を紡ぐより、コストの安い製糸業者から糸を買ったほうが結局は得になる。こうなると製糸業はどんどん拡大する。はじめは、家内工業、次にはマニュファクチュア、次には工場へと、規模も拡大し、遂には高度な組織をもった企業体にまで発展する。かつては農家の「自給自足」の個々の構成部分であった仕事が、つぎつぎと独立の職業になり、独立の家内工業になり、最後には独立の企業になる。今日の農家はありとあらゆるものを企業から買っている。
このような「自給自足の解体をつうじた社会的分業の拡大・複雑化、それぞれの分業をむすびつける交換(売買)の発達」こそが経済の進歩なのであった。
すなわち、分業によって、一方では、熟練の飛躍的向上と、他方では、設備、機械の飛躍的進歩が生まれてきた。この二つによって、生産性は、飛躍的に向上したのである。
ところで、このように、社会的分業が拡大し、無数の職業が生まれ、それが企業体にまで発達してくると、そこには、新しい労働人口がどんどん吸収され雇用の機会はどんどん拡張される。かつては、食うや食わずの状態にあった農家の次・三男は、新しい職業を身につけ、まともな暮らしができるようになり、新しい職業に習熟して、社会に有用な物資を生産するようになる。もはや、「間引き」は必要でなくなる。昔は「新田」を開発しないことには、増大する労働人口に働き場所を保障することはできなかった。企業の発展は、「新田」を開発せずとも、新しい働き場所を保障することを可能にしたのである。
すなわち、企業の成立・発展は、江戸時代でいえば「新田」が開発されたことに等しい。
このことを考えると、企業の社会的意義・役割は、誰の目にも明晰になる。それは、江戸時代の「新田」と同じく、
1.人々に「働く場所」を提供し、
2.人々に「収入をうる機会」を提供し、
3.人々に「社会に有用な物資・サーヴィス」を提供する、
ことである。
以上の意味で、その原点において「企業は田圃である」といってよいのである。かくして、「企業 = 悪」「企薬などつぶれてもかまわぬ」「くたばれGNP(=付加価値)」などという論議がいかに馬鹿げたものであるかは明白になるであろう。いったい、この世の中に、正気で、「田圃 =悪」「田圃など水に流されてもかまわない」「くたばれ収穫」といったことを口にする人がいるだろうか。
このように考えれば、今日も存在する「企業は単に利益を上げるための存在」というような、無機質な捉え方にはならないし、そこで働く企業人も、「生活のために、しかたなく働くだけの存在」というような無機質なものにはならない。
たしかに「百姓」の仕事はエレガントではないかもしれないし、また高尚ではないかもしれない。しかし、「百姓」が働かないことには、昔は、唯も物質的生活を営むことはできなかった。坊主に、学者に、芸術家に、メシを食わせていたのは、実は「百姓」なのであった。今日の企業人もまったく同じである。企業人こそが、人類の物質的生活水準の向上のために(そしてそれを基礎にした精神文化の開花のために)、日夜奮闘しているのである。
「企業と企業人に誇りを!」これが企業人の、今日の共通の合言葉でなければならないであろう。