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中国の特色ある社会主義(前編)

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こんにちは!栗原誠一郎です。

「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」

2017年10月に開かれた中国共産党第十九回全国代表大会において、習近平主席は「新時代の中国の特色ある社会主義思想」という言葉を打ち出し、そしてこの思想が「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」として、2018年憲法に明記されました。

それ以前の憲法改定同様、習近平の思想を憲法に明記することで、自ら思想に法的根拠を持たせ、この思想に基づき中国を導くという決意ともいえるでしょう。

前回記事で米中新冷戦の行方について書きましたが、そもそも中国はどこに向かおうとしているのでしょうか?
「新時代の中国の特色ある社会主義思想」とは、一体、どのようなものなのでしょうか?

こうした点について、今回はまず、中国を世界第二位の経済大国にする基礎を創った鄧小平時代まで、歴史を振り返りつつ考えていきたいと思います。

 

毛沢東による「施策」の否定

そもそも「中国の特色ある社会主義」という考え方を初めて打ち出したのは、鄧小平でした。

この考え方を正式に打ち出したのは、1982年の第12回党大会ですが、鄧小平はその前年1981年6月、第11期六中全会において「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」を実現させました。

毛沢東が1976年に亡くなってから5年後の事です。

この決議では建国以来の歴史を4つの区分に分け評価しています。

①社会主義改造が基本的に完成した七年(1949年 – 1956年)
国家の指導方針と政策は基本的に正確だった。

②社会主義が全面的に建設を開始した十年(1956年 – 1965年)
巨大な成果を得たが、厳しい挫折にも遭った。

③文化大革命の十年(1966年 – 1976年)
党、国家と人民は建国以来最も厳しい挫折と損失に遭った。

④歴史の偉大な転換(1977年 – 1981年)
国家は新しい歴史発展の時期に入った。

とし、毛沢東の建国の功績①を認めつつ、特に、文化大革命③についてはは、党、国家及び人民に対して建国以来最も重大な挫折と損失を与えたとして、毛沢東の責任を決議しています。

大躍進政策

因みに②の時代は、毛沢東が主導した「大躍進政策」(1958年~1961年)の時代です。
この政策は数年間で核武装し、経済的にはアメリカやイギリスに15年以内に追い越すとして進められた政策で、現実を無視した農業と工業の増産政策(計画経済)により大飢饉となりました。

また、反対派は弾圧により処刑死・拷問死させられたました。この時の大飢饉で中国統計上でも1959年から1961年にかけて1,348万人の人口減が確認されている大失策でした。

流石に、毛沢東も大躍進政策の失敗を認めざるをえず、国家主席を辞任せざるをえなかった訳です。

では、巨大な成果とは何か?
それは核兵保有国になったことです。毛沢東がソ連からの技術供与により、1964年発の核実験を行いアジアで初めて核兵器を持つ国となったのです。

文化大革命

大躍進政策の失敗により、毛沢東の後に国家主席となった劉小奇は、市場経済を部分的に導入し、経済の立て直しを図りました。

しかし、自身の復権を狙った毛沢東は、こうした劉少奇の政策を、「共産主義を資本主義的に修正するするもの」(=修正主義)として批判し、腹心部下であった党副主席の林彪に指示して、修正主義者を批判・打倒する運動を扇動しました。

その時に彼らが利用したのが学生達による組織「紅衛兵」です。

この紅衛兵を利用して、劉小奇や鄧小平達、その時代に実権を握っていた人物やそれを支持していた知識層も含め、糾弾し、死に追いやっていったのです。

その運動は、次第に毛沢東らのコントロールを超えて増長し、紅衛兵の派閥争いに発展、どちら派閥がより「革命的」であるかを競い、暴力はエスカレートしていったのです。

この「全体の雰囲気」が人々を狂気に走らせる怖さは、後に天安門事件で民主化を求める学生達を弾圧した鄧小平の脳裏にはっきりと刻まれたのではないでしょうか?

結局、この文化大革命も何ら生産的な成果を残すことなく、1976年、毛沢東の死去により、正に「党、国家及び人民に対して建国以来最も重大な挫折と損失を与え」ただけで終わりを迎えました。

そして、この④歴史の偉大な転換が始まります。

これこそが、鄧小平が始めた「中国の特色ある社会主義」建設です。

 

鄧小平の考える「中国の特色ある社会主義」

「特色ある」とは何か?そもそも鄧小平は「社会主義」をどう定義していたのでしょうか?

中国の元国務院副総理である曽培炎の著書「中國(市場経済と対外開放)」(日本経済新聞社)によれば、

鄧小平は…(中略)…「社会主義の本質とは、生産力の解放と発展、搾取の消滅、二極分化の解消であり、最終的にともに豊かになることである」と示し

たとのこと。その上で、

マルクス主義の基本原理では、生産力は一切の社会発展を最終的に決定する力であると考えている。社会主義を堅持するには、生産力の解放と発展を第一におき、それを根本任務としなければならない。根本的に言えば、社会主義制度の優位性とは、生産力を絶えず解放・発展させ、国民経済をより速やかに、より良く発展させられる点にある。われわれが建設する中国の特色ある社会主義は、社会生産力を不断に解放・発展させる社会主義であるべきなのは明らかである。

と説明しています。

つまり、伝統的観念では、市場経済は資本主義特有のものであり、計画経済は社会主義経済特有のものとされてきたが、社会主義と市場経済は全く矛盾するものではないという考えです。

この論理で行けば、現在の資本主義「体制」の国とあまり大差はなくなります。

独占禁止法により生産力を開放し、補助金等の経済政策により生産力を発展させることにより、国民経済をより速やかに、より良く発展させる。これは資本主義国家のどの国でもやっていることでしょう。

そうなると「特色ある」とは、単に「中国の実状に合わせた」位の意味合いしかなくなります。

そこには絶対に相入れないイデオロギー的対立として要素は全くないと言ってもよいでしょう。

 

徹底したリアリストとしての鄧小平

一方で鄧小平は、

・社会主義の道
・人民民主主義独裁
・中国共産党の指導
・マルクス・レーニン主義、毛沢東思想

という「四つの基本原則」も徹底し、いわゆる「民主化」要求に対しては弾圧と封じ込めを行いました。

しかし、この基本原則を守ることが目的ではなく、「最終的にともに豊かになることである」社会の実現と言う目的のための手段として「四つの基本原則」が不可欠(鄧小平は工業、農業、国防、科学技術という4部門での近代化(四つの近代化)のためには、四つの基本原則を堅持しなければならないとし、1982年に大幅に改定された中華人民共和国憲法の前文にも盛り込みました。)と判断したのです。

この鄧小平の考え方は、1986年、天安門事件(1989年)の3年前、民主化に肯定的だった当時の胡耀邦総書記らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺していた(「鄧小平秘録」伊東正著)という話にも現れていると思います。

鄧小平と言えば、「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるように、徹底したリアリスト・現実主義者でした。

大躍進、文化大革命の失敗、そして権力闘争や、冷静な判断力を失ったムーブメントの危険性を、身をもって経験した鄧小平がリアリストになることはある意味当然なのかもしれません。

 

国家主席の任期

そんなリアリストの鄧小平が行った、もう一つの政治改革が、共産党指導部の世代交代です。

ニクソン・フォード両アメリカ大統領時代、国務長官を務め中国とアメリカの接点として長く活躍してきたキッシンジャーによれば、鄧小平は以下のように話をしたとのこと。

“私が引退を強調するのは、晩年に間違いを犯したくないからだ。老人は強いが、一方でどうしようもない弱さがある。例えば頑固になりがちである。その弱さに老人は気付くべきだ。年をとればとるほど、穏やかになるべきで、過ちを犯さないように注意すべきだ。われわれは若き同志を選んで昇格させ、彼らを育てるべきだ。老人に頼ってはいけない。”

鄧小平は自らが主導して1982年に改訂を行った中華人民共和国憲法において、国家主席の任期を5年とし、2期10年の任期制限を設けましたが、そこにも老害に対する鄧小平の考えが表れています。

 

覇権主義

現在、中国の覇権主義が問題視されていますが。鄧小平はどのように説明していたのでしょうか?

1978年8月の日中平和友好条約交渉において、鄧小平が当時の園田直外相に対し、

「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであり、近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではない」

述べたとのことです。

同様の事を1974年の国連での演説でも鄧小平は述べています。

今回、鄧小平の考え方を知る中で、この時の発言が単に相手を油断させるための言葉ではないと私は思えました。

上記発言の「社会主義」とはこの記事の中で説明したように、「ともに豊かになることである」ことであるわけですから。

 

さて、中国はどこに向かっているのかということを理解するために、鄧小平時代までみてきたわけですが、鄧小平時代までは中国は「国民が豊かになること」しか考えてなかったように思います。

しかし、鄧小平自身が「党全体が思想を解放し、事実に基づき真実を求め、一致団結して前を見なければならない」と常にいっていたわけですが、逆に言えば「思想」は「事実」の変化によって変わるものとも言えるでしょう。

鄧小平は先述したキッシンジャーに対して、「建国の時から100年以内の時間をかけて、わが国を中程度に発達した国に築き上げることができたら、それは大したものだ。」と話していたとのこと。

建国100年は2049年ですから、現在の中国の発展は鄧小平には想像できなかった「事実」です。

この「事実」を踏まえて、現在の中国をリードする習近平主席が何を考えているのか?次回はこの点を探求していきたいと思います。

また、その記事を楽しみにして頂ければ幸いです。

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記事監修者

栗原 誠一郎
大阪大学基礎工学部化学工学科卒業。
三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社(旧三和総合研究所)に入社。
経営コンサルタントの中核メンバーとして、人事関連分野を中心に活動。

2016年2月、20年来の業務提携関係にあった株式会社日本経営開発研究所にシニアコンサルタントとして入社。
2017年4月、株式会社日本経営開発研究所の代表取締役所長に就任。

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